「「飛べないMRJ」から考える日本の航空産業史」

興味深かったのでメモ.全10回.

「冷戦で、日本は米国の航空技術に中毒したんです」

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/021900056/021900002/

つまり、航空解禁の段階で、すでに戦争中に蓄積したノウハウが散逸しちゃってたんです。

 ノウハウが散逸した一番の理由というのは、やっぱり高度経済成長の始まりだったと思います。自動車、鉄道、船に優秀なエンジニアがほとんど行きましたので。当時飛行機をもう一度ゼロから技術を積み上げて作ろうという人は非常にアナーキーな印象を持たれたんです。

 言い方を変えるとあの時期の日本は、米国から無制限に流れてくる新技術の中毒になった、ということです。あまりに彼我の格差が激しいものですから、来るものを学ぶことの喜びが非常に大きいものとなってしまう。ですから、独自に自分の意志で航空機を開発しようというマインドが起きなくなってしまったんです。何をするにしても、ロッキードグラマンから流れてくるノウハウを素早く吸収するほうが、手っ取り早いし効果的でもある。

「「国産航空機」を国交省は審査できるのか?」

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/021900056/041000004/

YS-11の時には、日本は米国の耐空審査基準を翻訳した耐空性審査要領にのっとって審査をしようとしたんですが、やりきれませんでした。

松浦:ええっ、YS-11の時点でできなかったんですか。

四戸:できませんでした。YS-11の時点でも結局日本人パイロットによる飛行試験だけでは、検査しきれなかったんです。

 YS-11は、離陸直後、二基のエンジンのうち一発が停止してもリカバリー可能に、という、双発機にとってみるとものすごくつらい最新の規格を世界で最初に通った機体なんです。当初設計では、試験飛行で一発停めると、機体が横滑りするのを止めることができずに、乗っていた人は相当怖い思いをしたそうです。

1963年3月20日、FAAからマイヤスバーグ国際部長、ローゼンバウム構造関係担当官が来日。一週間後の3月27日の第39回試験飛行で実際に機体を操縦し、「YS-11の安定性はマージナル(良いか悪いかギリギリのところにあるという意味)であり、ノーだ」と指摘した。それまで日本側は小改修で大丈夫と思っていたので、FAAからの「ノー」の指摘で大騒ぎとなり、機体の大規模改修を行うまでに至った。つまり、日本側の審査体制は「機体を小改修で済ませるか、それとも大規模改修すべきか」の判断ができなかったのである。
(中略)
1964年5月28日に、FAAによるYS-11最終審査が行われる。この時、FAAのピーターソン検査官は、事前に操縦関連のレクチャーを受けていなかったにもかかわらず、機体の操縦を希望。操縦席に座った彼は離陸直後に「エンジン、カット」と叫び片方のエンジンをいきなり停止し、YS-11が離陸直後のエンジン1基停止でも安全性を保てることを確認した。ピーターソンの突然の行動に、同乗した日本側関係者は大きなショックを受けたという。エンジン停止のような危険な試験は、十分機体の操縦に慣れてから行うものと考えていたからである。それだけ、ピーターソンの操縦技能は高かったのであった。

参考文献:前間孝則著「YS-11 国産旅客機を創った男たち」(1994年 講談社

YS‐11―国産旅客機を創った男たち

YS‐11―国産旅客機を創った男たち

「八方塞がりのMRJ、だからこそ前を向け」

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/021900056/041600005/

四戸:円筒形の型をぐるぐる回転させて、繭を作るように外側から炭素繊維を巻いていくんです。もとはといえば海中で使う高圧ボンベを作るために開発された方法で、ついで宇宙分野で固体ロケットのモーターケースを作るのに使用されました。

松浦:ああ、日本のH-IIAロケットの固体ロケットブースターはその方法で作っています。

四戸:そうですね。787の胴体も同じ方法で作っています。でも、航空機の胴体はボンベや固体ロケットとは違う難しさがあります。胴体前部や後部は太さが変わるし、しかも窓があるということです。

Y:ぐるぐる巻いていって、後から窓のところを切り出すんじゃないんですか。

四戸:そうなのですが、可能な限り窓の部分の強度低下を避けるようにして炭素繊維を巻いて積層していって、胴体を形成するんです。

Y:……いったいどうやるんでしょう。

四戸:もの凄い製造技術ですよ。日本メーカーでは川崎重工業が787の前部胴体の太さの変化がない部位を担当しています。三菱は787の製造で、CFRP主翼という重要部位を担当しているので当初は「胴体も自分でもできる」と判断したのだと思います。ところが、太さの変化する胴体を、窓のところの強度低下を避けつつ炭素繊維を巻いていくために、どういう手段で行うかは、ボーイングのノウハウです。日本企業には開示されていません。

四戸:数学者が関わった可能性はあるでしょうね。それも工学のための応用数学ではなくて、純粋数学の学者が。純粋数学なんて「役に立たない」と思っている人もいるでしょうが、実は非常に基礎的で応用範囲の広い学問です。米国もロシアも、数学のような基礎的な学問を非常に大切にします。ボーイングには、そういう奥深い学問を大切にする度量があると思います。

四戸:2008年の開発立ち上げ当時、私が驚愕したのは、電車の吊り広告に「三菱航空機エンジニア募集」という人材募集の広告が出たことでした。

松浦:そういえばそんなことがありましたね(松浦注:自分のブログでも書いていました。こちら)。

Y:技術者の数が足りなかった?

四戸:足りないというよりも、おそらくいざ開発を始めてみたら、事前の見通しとはうらはらに手も足も出なかったんでしょうね。それで経験者を募集したんですよ。でも、日本にそんな経験者の人材はいないですよ。これまでお話ししたような経緯で、ずっと飛行機を開発してこなかったのですから。

松浦:それが回り回って、現在につながってくるんですね。

Y:もともといないところで、人材募集してもしょうがないような気が……。

オスプレイの設計は見事、そして鳥人間の罠」

https://business.nikkei.com/atcl/opinion/16/021900056/050200007/

四戸:鳥人間コンテストは、なんと言いますか、日本人の特性が非常に良く出ていると思います。要は人力でどれだけ長距離を飛ぶかという競技ですが、実はその分野ではマサチューセッツ工科大学(MIT)が、「ダイダロス」という機体を作って、1988年4月にギリシャエーゲ海で115.11kmという世界記録を出しています。この記録は今も破られていません。

 そのことを知った上で、航空機の設計を見ていくと、今、鳥人間で良い成績を出している機体はみんな「ダイダロスの息子」なんですよ。

クレーマー賞はご存知ですか。

松浦:人力飛行機に懸賞金を出した賞ですよね。8の字飛行を行ったチームに賞金を出すという。

四戸:ええ。この賞はアメリカのポール・マクレディが「ゴッサマー・コンドル」という機体を開発して、1977年に8の字飛行を実施して獲得しました。

(中略)
ところで、クレーマー賞は、ひとつ目的を達成すると次の目的を、という賞でして、次は人力飛行機によるドーバー海峡横断でした。これもマクレディが「ゴッサマー・アルバトロス」という機体で成功させてクレーマー賞を取りました。次の目標は太陽電池をエネルギー源とするソーラープレーンによるドーバー海峡横断で、これまたマクレディが「ゴッサマー・ペンギン」という機体で獲得しました。

その次に設定されたのが、人力飛行機による速度と運動性を試す、という目標でした。全長1500mの三角形コースを2分以内に回れ、というものです。

だけれど私には、現状の琵琶湖の鳥人間コンテストは、「ダイダロス」という解答の示された「道」をひたすら追求するという非常に日本人的な姿、いわば「ダイダロス道」を一生懸命に追究しているように思えます。ダイダロス以外にも参照すべき膨大な過去の財産、航空技術、工学知識があるのに、「正解はこれだ」という認識が生まれ、機能しているために、今では日本の航空時術を押さえつける蓋にさえなっているように感じます。日本において、みんなが飛行機を作ってわっと盛り上がれる貴重な場所であり、とっても良いイベントなんですよ。もっと落ち着いて、木だけではなく森を見て、つまり体系的な知識を基盤に据えて、そのうえで独自の発想を競えたらどんなにすばらしいか。

飛べないMRJ 週刊ダイヤモンド 特集BOOKS

飛べないMRJ 週刊ダイヤモンド 特集BOOKS

国産旅客機MRJ飛翔

国産旅客機MRJ飛翔